こんにちは。
嵐が来たり、蒸し暑かったり、不安定な気候が続いています。
皆様、大雨は大丈夫でしたでしょうか?
お怪我された方、だれかを亡くされた方に、
一日でも早く穏やかな日々がおとずれること、
そして痛みに寄り添えることができますことをお祈りいたします。
さて、今回もQuoraの私の回答をご紹介します。
少し長いので、お暇なときに少しずつお読みくださいね。
【質問】
【回答】
以前どこかに、「親に愛されたけど信頼されなかった」経験が、自信を奪うことがある、ということをちらりと書いたら、わりと反響をいただいたことを思い出しました。(どの回答だったか探しても見つからなかったんですが;)
愛と信頼は分かちがたいものではありますが、同じものではないようです。
愛の定義は難しく、心理学では一口に愛といっても、その中には6種類のカテゴリーが存在するといわれています。
1.エロス(情熱)
2.ストロゲー(友愛)
3.ルダス(遊戯)
4.マニア(狂信)
5.プラグマ(実利)
6.アガペ(慈悲)
この中で、「子どもを愛する」「パートナーを愛する」と言ったときに、1.または6.のようなイメージがありますが、実はさまざまな愛のカタチがあり、そして私たちは1.や6.だと思いながら、実は他のカテゴリーの愛情を相手に注いでいた、というのもままあることです。そして、それ自体が悪いことではありません。
純粋にどれか1種類のみの愛情を注ぐ、ということもあり得ないので、その様相はとても複雑であり、個人によって色彩の異なるものです。そして、私たちは個人的な体験から「これが愛だ」と思うものを、「愛」と命名して相手に注いでおり、結局、「愛」というものの定義とコンセンサスはとても確立されにくいのです。上記は、「なんか人が愛って呼んでいるものを因子分析したら上記の6つになったよ」、という感じです。
それに対して、信頼、というものは、また別の概念で説明できます。
信頼とは、「何かを相手にゆだねる気持ち(中谷内,2018)」です。相手にゆだねてしまうと、状況が悪化するかもしれない、下手したら自分がひどい目に合うかもしれない。でも、まあいいか、と思える気持ちです。スピリチュアル的に言うと、「恐れを手放した状態」と言えるかもしれません。それが自分と相手のどちらにも備わると、「信頼関係(rapport=フランス語で橋を架ける)」ができることになります。
愛は、それ単独でひとつの作品です。自分だけの。しかし、愛は受け渡し経路を必要とします。自分が愛という作品を渡そうと思うとき、相手がその作品を抱きしめてくれても、わざと壊しても、価値がないと思っても、「まあいいか」と相手にゆだねられるとき、すでに橋は架かっている(信頼関係の成立)なのです。
このとき陥りがちな落とし穴は、「相手が自分と同じように思ってくれているか?」を確かめることです。信頼の橋がかかっているかどうかは、自分が相手を信頼しているかどうかでしかはかれません。相手の信頼を疑ったとき、それはまだ自分が相手を信頼していないことにほかならず、「まだ橋は架かっていない」というのが答えです。
すみません、愛と信頼という大きなテーマで、説明が長くなってしまいました。
私としての答えは、「愛」は自分だけの作品で、だれもが持っているものです。そして、「信頼」はその受け渡し経路として出現するものです。役割が違うといっていいでしょう。
愛は単体で存在できますが、信頼という橋がないと届かなかったり、剛速球で投げて相手を(心理的に)怪我させたり、壊れたり、することがあります。また、それを繰り返すうちに、愛自体が変質して、異様なものとなってしまう結果も、あることでしょう。
その代表例が、過干渉といわれるものだと思います。過干渉の親御さんは、一様に、豊かな愛をもっていらっしゃいます。でも、だからこそ、「この子がどうなっても、まあ、いいか」という信頼が難しい(突き放しとの区別がつかない)のです。橋が架けられないと、自他の境界があいまいになり、自分が傷つけられることを許してしまったり、相手を傷つけることでコントロールしてしまったりして、キラキラしていた愛の作品が、痛々しい姿になっていくこともあります。
でも、きっと、もっと素敵な作品に生まれ変わると、関係者全員が「信頼」することで、愛は生まれ変わっていくのではないのかなと思います。
すみません、まだ長くなります(笑)
私の実体験で、「愛はあるけど信頼されていなかった」人を間近で見たことがあります。
まだ私が高校生のとき、バイト先で知り合った同じ年の男の子がいました。その人は、簡単にウソをついたり、人のものを盗んだりするような人でした。
まだそれがわかっていなかったころ、何気なく話していると、その人は誇らしげに「うちの親は、俺を信じてくれる。俺が学校でものを盗んだとか、人を殴ったといわれても、俺がやっていないと言ったら、『絶対にお前はやっていない』と信じて学校に怒鳴り込んでくれるんだ」と言っていました。
今、考えると、それは「信頼」ではありません。「本当にやっていたとしても、罪には責任をとらなければならないが、親が注ぐ愛は変わらない」ことがわかっていれば、橋を架けられ、彼に「本当のことを言ってもいい」という安心感が育まれていたかもしれません。
その親御さんは、本当に彼がやっていた可能性から目をそらしました。なぜなら、「一度でもウソをついたり、罪を犯したことが分かれば、親は大きく傷つき、注ぐ愛が変わってしまう」ことが、わかっていたからではないでしょうか。そしてそれを息子であるその男の子もわかっていたからこそ、ウソを突きとおすしかなかったのではないでしょうか。
でも、その親御さんに愛がなかったのか、といえば、そうではありません。たくさんの愛情を注いでおられたのではないかな、と思います。
その後、その男の子は、バイト先の売上金を盗んで行方をくらましました。
今、20年以上経って、その男の子に安心感と信頼が育まれていますように、そして、それを次世代に伝えられていたらいいな、と思います。
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